ここでは、私のような謙虚な人間をして「ウチのトマトは世界一美味しい」と豪語せしめた理由を述べたいと思います。
昭和回顧録
昭和33年12月生まれの私と家人は、青少年期に戦争を体験した親を持ち、日本が戦後から抜け出そうとして変化を続けていた時期に幼少期を過ごしたのです。幼い頃の私たちは、いま放送中のテレビドラマ『南極大陸』の子供達をほんのちょっとだけ清潔にした格好で、そこら辺を走り回っていました。
一戸建てに住めるほんの一部のお金持ちさんたちとは違い、多少の差はあれ、今の生活と比べれば【貧乏】という【括り】に入る生活でした。
でも、自分たちが貧乏だと思っていたわけではありません(親たちはそう思っていたかもしれませんが)。塾に行く子供など、私の知る限りでは一人もいませんでした。毎日、親から、いい加減に帰ってきなさい、何時だと思っているのと言われるまで外で遊び、ごはんを食べて、寝てという、しあわせな子供時代でした。
しあわせに食べ物の思い出は欠かせません。子供にとって何よりの楽しみは、おやつです。
春から夏の間(なぜか秋冬の記憶がない)、早朝に、お百姓のおじさんがリヤカーを引いて、朝採れたばかりの野菜を売りに来ていました。「奥さん、今日はいちご安いよ」「スイカおいしいよ」「じゃあスイカと、ぶどうもちょうだい」などという玄関先でのやりとりを聞きながら、今日のおやつはスイカかなと布団の中でほくそ笑んだりしたものです。
いまだに懐かしく思い出すのは、おやつのいちごやスイカ、ぶどう、そしてトマトです。
けっしてお金持ちではないけれど、夕食後のデザートには4人家族で、いちごを2パック、一気に食べていました。(ちなみに、いちごパックは今も昔も同じです。なんだか不思議)ガラスの器におてんこ盛りにしたいちごに、砂糖とミルクをかけて食べるのが我が家流でした。
貧乏とはいえ、スイカはずしっと重くて食べごろのやつを、丸ごと買っていました。たらいで冷やし、豪快に切ったスイカを大きなお盆にのせてくれ、近所の子供達4~5人と縁側に並んで座り、ペッペと種をとばしながら競うようにしてかぶりつく光景が、いまもありありと思い出されます。
ぶどうといえば、種なしぶどう。巨峰などという高級なものは頂き物でしか口に入りませんでしたが、デラウェアとおぼしき種なしぶどうは、大皿におてんこ盛りにしてもらい、兄と競うように食べていました。
トマトもよく食べました。採れたての真っ赤なトマト。熟しているのに実がしっかりしていて、味が濃厚、甘い。スイカや種なしぶどうと並んで、大きなトマトはお腹を十分に満たしてくれる美味しいおやつ。私は、そんな甘いトマトに、上白糖をふりかけて食べるのが大好きでした。
トマトに砂糖! ゲェッという方もおられましょうが、トマトにソースや醤油をかける人もすくなくありません・・・よね? マヨネーズかけるのもいいですね(完全に逸脱してます)。
すごく長い前振りになりましたが、簡単にまとめれば、私が子供の頃は、貧しくても、安くて新鮮な野菜類がふんだんに食べられた時代だった、そして、子供の舌で覚えたスイカやトマトの味は、今でも忘れていないということです。
世界中のトマトを食べた ワ タ ク シ
このような味の思い出をもった私が、「ウチのトマトは世界一美味しい」と厚顔にも豪語できるのは、私が世界中のトマトを味わった経験を持つからです。
注:世界中のトマトというのは、もちろん、大ざっぱな意味での【世界】であり、厳密な意味での【世界】でないことをご了承下さい。
私は20代の丸7年間、世界中飛び回る職業に就いていました。その間、アメリカの友人宅に厚かましく泊めてもらいに行くこともありました。休暇中は仕事で行かない国を旅行し、ドイツで4ヶ月、イギリスで1年半の生活経験があります。ネパールで最初に食べた野菜はトマトでした。ということで、一応、世界中でトマトを食べたといっても、大ボラとは言えないなぁとお許し頂けることを祈ります。
但し、永田農法でよく語られる、トマトのルーツであるアンデスへは行ったことがありません。(残念!)
世界のトマトと日本のトマトの違い
アンデスのトマトはさておき、私が食した世界のトマトは、みなよく似ていました。
サイズは日本でいうフルーツトマトぐらいの中玉。果肉はピンク系で、実がしっかりしていて、酸味が強い。いかにも野菜です!という主張を感じます。どの国でも、さほど味と形状に変わりないというのも、面白いことです。
ドイツに住む友人はビオの食品しか食べないので、滞在中はビオ野菜を十分堪能しました。高価な有機野菜であるビオものは、日本のスーパーで売っている野菜とは、全く比較の対象にならないぐらい美味しいのですが、なぜか、トマトはよその国の中玉トマトと同じようなお味でした。
(注:説明すると長くなりますので、ドイツのビオについては、ネットで調べてくださいませ。)
イギリスのトマト事情も、ほぼ同じですが、こちらでは日本にあるような真っ赤な大玉トマトを買うことが出来ます。スーパーではあまり見かけませんが、いわゆる日本の市場のように、お肉屋さん、八百屋さんと独立した店では、夏場に大玉トマトが時々売られていました。嬉しくなった私が、数個買い込むと、お店のおじさんが「スタッフ・トマトにするんですか?」と聞いてきます。下宿に帰っても、大玉トマトを見た大家さんやその娘たちが、それぞれに「今夜はスタッフ・トマトを作るの?」と聞いてきます。
別にいいけどぉ……でかいトマトを生で喰ったらいかんのかい!と心の中でぶつくさ言った記憶があります。イギリスでは、例の酸っぱい固いトマトは生食、熟した大玉トマトはスタッフ・トマトにするというのが通例のようです。はたして問題のでかいトマトのお味はというと、全然記憶にありません。美味しかったら、食いしん坊の私が忘れるはずはないんですが・・・・・・。余談ですが、朝食のソーセージなどに添えてある、グリルで焼いたトマトは美味しいです。
(注:説明すると長くなりますので、スタッフ・トマトについては、ネットで調べてくださいませ。)
各国のトマト事情をすべてここに述べると、きっとこのブログを誰も読んでくれなくなると思いますので、ここら辺で外国トマトのお話しは終わります。
結論:日本のトマトの方が美味しい、と私は感じます。ていうか、外国ではトマトに糖度など求めていない、トマトはサラダの一部と捉えられていて、トマトだけを切って皿に盛って供するという形は見たことがありません。
ウチのトマトvs日本のトマト
では、いままでに日本で食したトマトとウチのトマトを比べてみます。
ワタクシにも、独身貴族と呼ばれた時代がありました。それもかなり長期間。その間、お財布の中身を気にもせず、ひたすら美味しいものを求めていました。でも、単体の食べ物として、子供の頃に貪るように食べたトマトに匹敵するものには巡り会えませんでした。
もそっと年を喰ってお局様と呼ばれるようになっても、自宅周辺のスーパー、デパート、八百屋さんで売っているトマトの味は、感動にはほど遠いものでした。
さらに年を重ねて、海外旅行より国内の温泉旅行を好むようになったこの10年ほど、野菜の味が以前よりは良くなった(売っているところと値段に拠りますが)と感じています。
家人の故郷、長野のスーパーにある[地元産野菜]コーナー、蓼科高原、飛騨高山、下呂温泉などの宿泊施設で到着後や湯上がりの客をねぎらうために置かれた[ご自由にお食べ下さい]という清水で冷やした野菜桶。いずれも「おいしい」トマトがありました。
でも、今年採れたウチのトマトは、それらのトマトの味を遙かに上回っていました。
農家に嫁いだ友人のお話を『農薬』タブで紹介しましたが、その友人のご近所にトマト名人と呼ばれる方がおられるそうです。友人を我が家の昼食に招いて、ウチのトマトを食べてもらうと、「これは、ご近所のトマト名人のトマトよりおいしい」と言ってくれました。
だらだらと、あきれるほどトマトについて書き続けてきましたが、やっと結論をご披露するところまできました。
なぜ世界一と言えるのか
味の判断は好みに左右されますから、おいしいかどうかは、個人的な意見でしかないという前提をふまえて、僭越ながら申し上げますが、昭和30年代~40年代という、自然な農法で栽培された野菜を食べて育ったワタクシは、少々ながら野菜に関する自分の味覚に自信を持っています。
そんなワタクシがトマトのおいしさ比べをして、得られた結果は次のようになります。
ウチのトマト>日本の特においしいトマト>日本の一般的トマト・ビオのトマト>外国の一般的トマト
比較に用いたデータが少なすぎるのではとのご批判もありましょうが、ともかく、これが永田農法3年生の出した結果でした(万歳万歳)。
ウチのトマトは、甘酸っぱい香り、緻密でなめらかな果肉、酸味と甘みがほどよく調和したゼリー質をもち、噛んだとたんに「おいしいぃぃ...」とうなり声がでてしまいます。味に深みがあり、えぐみや青臭さは全く無く、おいしさの余韻が長く続きます。滋味とは、ウチのトマトのためにある表現なのではないか(そうではないですけど)と思わせる味わいが、今この文章を書いていても、口中によみがえるほどです。
我が家でトマトを栽培するようになって3年経ちました。最初の2年は、大玉トマトの実つきが悪かったという失敗もありましたが、もう我が家族の舌は、ウチのトマトの味を覚えてしまいました。そのため、季節はずれにスーパーでトマトをほとんど買わなくなりました。時々トマトを食べたくなっても、1個100円から150円の見かけはおいしそうな大玉トマトを見ると「おいしくないものをわざわざ買うことはない」と手を引っ込めてしまいます。
次の夏には収穫量を増やす裏技をつかい、世界一のトマトを堪能するのが楽しみでなりません。